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私の親友「チヒロ(仮名)」について

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親友「チヒロ(仮名)」のプロフィール

※注意:病気や自死などセンシティブな内容を取り扱うので、本名ではなくチヒロという仮名を使っています。

今回は、このブログの主人公でもある私の親友チヒロを紹介したいと思います。高校で出会ってから、性格はまったく違うのになぜか意気投合して高校時代を過ごした私達。

チヒロにも私にも他にも友達はいたけれど、私にとってチヒロは特別でした。他の人から理解できないお互いのことも、なぜか理解できるような、弱い部分を補いあうようなそんな関係だったと思います。

当時はそんなこと考えて付き合ってたわけじゃないんですけど、ただ一緒にいるのが好きだったからいる、といういたってシンプルな気持ちで一緒にいました。

今回は、私から見えていた「チヒロってこんな人だったんだよ」というのを書きたいと思います。

※チヒロと私については、別記事「このブログについて」に書いていますので良かったら読んでみてください。

親友チヒロについて

1人の大切な息子がいます。

小さい頃から猫が好き。特技はピアノとサックス。

性格はサバサバしていて、義理人情に熱くて自我が強い。出会った人の脳裏に焼き付く強烈な個性の持ち主。

女子の馴れ合いとか、表面だけのママ友とか、意味ない付き合いが苦手で、嫌われてもいいから自分に正直でいたいタイプ。

音楽とファッションや好きで、トレンドが大好きで、若い頃はアパレルやファッション関係のスタイリストとしても仕事をしてました。

妊娠を機に20代前半で結婚。妊娠中にご主人の仕事の関係で縁もゆかりもないエリアに引っ越して、一人で出産、その後はほぼ一人で子育て。約6年間の結婚生活を経て離婚。離婚後は地元に戻って、仕事をしながら子育てをしていたシングルマザー、いわゆる片親母子家庭でした。

産後に体調を崩したことがきっかけで、当時の医師から産後うつとパニック障害の診断を受け、言われるがまま出されるがまま大量の向精神薬を12年間も飲み続けていました。

チヒロが精神科の薬を飲んでいると私が知ったのは、チヒロがまだ子供に離乳食を手作りしていた頃。

「手作りの離乳食」でわかるように、彼女は絵に描いたような真面目で努力家タイプの人間でした。

パニック障害と診断されるまで

20代前半で出産して、その直後育児真っ最中のときに、呼吸困難のような発作で救急搬送されました。

その発作は離乳食を作ってる最中にも起きました。「私…赤ちゃんを育てられないかも…」

と、恐怖で身体が震えだして頭がおかしくなる中、駆け込んだ心療内科。

告げられた病名は「パニック障害」でした。

投薬治療が始まって、1年…2年…と過ぎていき、どんどん不調は増えていって、気がつけば…

「うつ病」
「睡眠障害」
「適応障害」
「統合失調症」
「双極性障害」
「境界型パーソナリティ障害」

と病名が増えていき、「精神障害者」になっていました。

検査をいくらしても異常なし。原因不明の病名だけが増えていき、「慢性疲労症候群」や「線維筋痛症」「自己免疫疾患」などの診断も受けました。

納得できずに何軒もの病院を転々とドクターショッピングしても、全然治る兆しがない。そんな状態が何年も続いて、サポートに疲れ果てた夫との関係もギクシャクし始めた。

そして、息子が小学校に入学するタイミングで離婚。

チヒロは「息子だけは…」となんとか親権は取れたけど、病気で苦しい中、子供と2人で地獄に蹴り落とされたような生活へ。

離婚後、地元に戻る

関東から車に荷物を積み込んで、息子と2人で地元に帰ってきたけど、そこにはチヒロの居場所はなく体調はどんどん悪くなるばかり。

誰にも理解されず、改善のための糸口も見当たらない状態でただ日々を乗り越えるだけ。

毎日薬を飲みながら、時には薬の量を増やされたりしながら過ごす毎日。

そんな生活の中、めぐり逢った「減薬・断薬」という言葉と、ある人のブログ。

毎日毎日、ネット検索や断薬を成功した先輩たちへ相談をし、離脱症状で本も読めなくなり代わりに私が読んだりしていました。

12年間、休む事なくチヒロが飲み続けてきた「向精神薬」を辞める日が訪れたのです。

断薬後に離脱症状で苦しむ毎日

当時のチヒロは、精神疾患を治すための方法をネットでたくさん調べることで、向精神薬の怖さや、精神科の闇のようなものにたどり着いた彼女は、ただただ「向精神薬を飲むこと」の恐ろしさに直面しました。

息子ともう一度普通の生活をするために、薬を飲むのを止めて、元気になるために模索しながら過ごす日々。でも、自己判断で薬を減らして、断薬して、離脱症状に苦しむ日々。

そして、離脱症状が原因だと思われる性格の変化。体調が不安定なので、それに伴って精神面も不安定になる。

朝起きれない、夜眠れない、仕事に行けない、家事ができない、息子の世話ができない、人と会うことができない、対人関係でトラブルが増える、太る、頭がまわらない、希死念慮が消えない、、、

挙げればキリがないですが、あの頃のチヒロは本当にたくさんの悩みを抱えて過ごしていました。

私が知っているのもほんの一部なんだと思います。

自殺未遂

薬の大量摂取、いわゆるOD(オーバードーズ)をして救急搬送された時の話です。

チヒロがODして救急車で運ばれたと息子から連絡を受け、急いで搬送先の救急病院に行ったらチヒロはベッドで寝ていました。

胃洗浄を受けた直後でぐったりしているのに、「絶対に病院にはいたくない」と止めるお医者さんの手を払ってフラフラしながら帰宅しました。

チヒロにとって、病院というのは命を助けてくれる場所ではなくて、自分の病状を悪化させる怖い場所になっているのを目の当たりにしました。

親友が飲んできた向精神薬

その頃チヒロの家に行くと、辞書みたいな分厚さになってしまった「お薬手帳」がテーブルの上においてありました。処方された大量の向精神薬は、大きなビニール袋に入れられて、息子の手が届かないクローゼットの奥の方においてありました。

「クリニックを変えればそれだけ病名が増えて、薬の種類が変わって増えていくだけだよ」、とチヒロは言っていました。

過去に処方された薬の一部

○向精神薬(メジャートランキライザー)

・レボトミン

・コントミン

○抗不安薬(ベンゾジアゼピン系)

・アルプラゾラム

・コンスタン

・ソラナックス

・メイラックス

・セニラン

・デパスなど

○新型抗うつ剤(SSRI , SNRI , NaSSAなど)

・パキシル

・ジェイゾロフト

 ・リフレックス

○三環系抗うつ剤

・アモキサン

・トフラニール

○睡眠薬

・サイレース

・ロヒプノール

・ハルシオン

・ユーロジン

○その他:

・ランドセン

・ドグマチール

これ以外にも、漢方薬や便秘薬、めまいや胃のお薬とかも処方されていました。

薬袋いっぱいに詰め込まれた何種類もの薬と、真面目に飲む親友。

最期の一年

亡くなるまでの最期の1年は、彼女にとって特に辛かった時間だったと思います。

薬のせいで気持ちが不安定になって、人格が崩壊しそうになっている中、なんとかもがいて助かるために必死に生きていました。

でも、周囲からは「チヒロは変わった」という目でしか見られていませんでした。

友達と思って付き合っていた人たちが、周りからどんどん離れていく恐怖。

私自身も、彼女がどんどん変わっていくのを見て、助けの手を差し伸べるどころか少しずつ距離を取って付きあっていた時期がありました。心配しているフリをして、一定の距離を保って付き合っていたと思います。

そんな中、チヒロは誰にも頼れず、誰にも相談できず、ひとりでどうやって息子と生きていこうか必死で悩んでいました。

最期の最期まで自分のことより息子のことを心配している彼女がいました。

最後に

ひとり寂しく、家族がでかけている間に命を絶ったチヒロ。大切な息子を残して、どんな思いで最期の瞬間を迎えたのか。

答えはありませんが、彼女が私に伝えようとしていたことを考えることが、残された自分の役目だと思っています。

メンタル疾患は、現代人にとって本当に身近な病気になりました。

そして私達はいつの間にか「薬」へのハードルが低くなっていて、「薬を飲めば治る」という間違った洗脳を受けていたように思います。

薬は治すものでなく「治るまでの浮き輪」なんですよね。(とある方の言葉です)

今すでに治療中の人、薬を辞めたい人、精神的に弱くなって病院に行くかどうか悩んでいる人、チヒロと同じように悩んでいる人にとってなにか役に立てたらと思いブログを始めました。

離脱症状で死ぬほど辛いのもわかります
死にたくなくても生きるのが辛いのもわかります
でも生きたいと願っているのもわかります

疲れ果てたあなたの心の中に、ほんの少しでもいいから「生きたい」という想いがあるのなら、私はあなたの味方になりたい。

まだ人生終わらせたくないという人にとって、少しでも勇気を与えられる内容をお伝えできたらなぁと思ってみたり。ちょっと上から目線でごめんなさい。

仕事の合間に、自分の棚卸しとしてチヒロとの思い出や、気付きや、やればよかったこと等を書いていくので、よかったら読んでもらえたら嬉しいです。

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